私は、何故5年間の付き合いのある友人に今回の対話をなげかけたのかと考えた時に思い出すことがある。夏にせんだいメディアテークへ博物館実習に行った。ある日実習が終わったあと、現地の実習生のM ちゃんと七夕まつり真っ最中のアーケード街を歩いていた。アーケードには色とりどりの七夕飾りが飾ってあって、とても華やかで賑やかだった。M ちゃんはいろいろ地元について、自分がやっていること関心のあることについても話してくれた。でもその中に3.11に関する話題は一切出てこなかった。私は3.11 についてのなにかしらの言説が彼女や他の現地の実習生の口から吐露されるのを期待していたのかもしれない。他の実習生を含め彼女が関東からきた私に気を使っているのか、触れられたくないからなのか、そもそも関心がそんなにないからなのかはわからないけど、実習最初の日の自己紹介でせんだいメディアテークを選択した理由にもそういった言説はなかった。私は自分が相手に期待したその気持ちをひどい感情だと思った。でも気になったから、聞いてみた。それはこうだ「震災とか、どうなの?」なんてひどい語彙力。私が美大をでていることを知っているMちゃんは、家が修理中の話の次に、東北の美大生がつくる作品についての印象を話してくれた。細かい話の流れは憶えていないけれども、私が印象に残っている言葉は「震災の瓦礫を使って作品をつくるひとが多いけど、瓦礫を使えば作品になるのかなって感じ。」ちなみにM ちゃんは美大生ではない。私はちゃんと返事ができなくて、彼らは瓦礫を使えばその問題について考えていることになると考えているのかな。とか、どういう思いで使っているのかな。とかそんなことをブツブツいって、話は流れていった。私はそれまで同じ実習生の立場で彼女と会話をしていたものだから、その会話の中で急に自分が作り手として責められていると感じうろたえたのだった。
私はあそこがどういう場であったのかを知らない。メディアで繰り返し流れていた波がすべてを飲み込む空からの映像。ヘリの音にのせて流れていたあの映像は私が決してあの場所にいないということを示している。でも現実に、あの映像の中には確かに人がいた。私はその点で、痛みを抱えるあるいは痛みを抱えているとみられている立場にたって何かを誰かと話すことも言葉にすることもできない。これはごく当たり前のことだけれど、私は朝鮮大学校の2人と、お互い作り手なのだから話が通じるはずという立場でお互いの民族的な意識の差異の認識の共有がないままに会話が進んでいくことがこわかった。2012年の合同展以来、私はチョンオギやリエに聞きたいことがたくさんあった。でもそれを聞くということがどういうことなのか、彼女たちが答えてくれたとして、それに対する私の想いは口にだした場合どんなふうに受け取られるのか。ずっと気になっていたが聞けなかった。だから今回は対話をテーマに展覧会を企画すればそういう文脈でお互いが切り込めるのではないかと考えた。相手も私も在日であることや日本人であることを意識せざるを得ないテーブルの席につくこと。それは結果として痛みの伴うリアリティのある環境だった。自分の口にした素朴な疑問についてどうしてそんなことを聞くのかと責められている感覚になること。自分の言葉が、相手にとって大抵の場合マジョリティーの意見として受け取られてしまうこと。彼女たちの痛みを想像できないこと。そこで感じた焦燥感や苛立ちはリアルなものだった。けれども、一年間話していくと、それぞれが歴史の地続きの上に立っていることのリアリティのなさに気づき、口に出している言葉と自分の思考との溝を自覚し戸惑い始める。自分は本当は何を考えているのだろうか。これは誰の意見なのか。どこかで見たり聞いたりした資料や話を伝えているだけなのではないか。だとすれば私たちの民族的な差異とはどこにあるのだろう。そこに横たわるリアリティのなさという痛みは対話の上だったからこそ感じられるものだったけれど、そこには世代の違いや、その時代特有の状況など様々なものが関与しているのかもしれない。私は戦後45 年に日本人として生まれ、戦争をしらない。フクシマにいない。在日の立たされている境遇をしらない。学ぶこと、知ること、耳を傾けて考えることも大切なんだと思う。それでも思考が及ばない領域がある。今隣にいる他者、同世代との対話にはリアリティがあった。そのような意味で「対話」は今自分が立っているこの場所をみつめる視座の一つには、なるのかもしれない。
(本文は、BOOKS『突然、目の前がひらけて』(2015年出版)に掲載した文章である。)