『サクラ、サクラ、サクラ、』のメモ

Memo for "Sakura, sakura, sakura"

ペリリュー島は東西3kmの小さな島だ。昭和19年、茨城県水戸市で編成された陸軍歩兵第2連隊を含む約1万人の兵士が派遣された。9月にアメリカ軍が上陸し、制海権も制空権も失った日本兵は洞窟に閉じ込められた。医薬品も食料も補給は絶たれ、鍾乳石から垂れるわずかな水を口にしながら、何ヶ月も身を潜めた。体にウジがわいた。錯乱した兵士が仲間に銃を向けた。遺体は埋葬できず、ジャングルに打ち捨てるしかなかった。肋骨を踏んで歩いているようだったと、生き残った者は語っている。

死ぬと言うのは簡単だ。生き延びることの方が困難だった。

アメリカ軍の掃討が迫る中、兵士たちは玉砕を望んだ。しかし大本営はそれを禁じた。サイパン、テニアン、グアムで一ヶ月も持たずに玉砕した失敗を踏まえ、持久戦でアメリカとの決戦の時間を稼げという命令だった。「ペリリュー島での持久戦が一億人の戦意高揚に役立っている」と。突っ込んで死ぬ自由さえ、彼らには与えられなかった。

昭和19年11月、連帯本部へのアメリカ軍総攻撃の2日後、中川大佐は自決した。電報を打ち、組織的戦闘は終わった。1万人のうち生き残ったのは34人だった。第2連隊3600人のうち、9割がこの島で命を落とした。

自決という言葉は、いつも何かを隠す。

個人が、命が、その固有の重さごと「散華」という美しい音に溶かされていく過程を。戦場で死ぬことを花が散ることに喩えた人々は、そうすることで何を見ないようにしていたのか。国のコマは動かされ、消耗され、それでも「忠」と刻まれて死ぬ。その死は称えられ、語り継がれ、やがて抽象化される。個人の恐怖は、個人の後悔は、個人が最後に見た景色は、どこへ行くのか。電報の文字列の中に、それらは収らない。

命を国にかけるとはどういうことか。自らの意志でそうしたのか、そうするほかなかったのか、その境界線はどこにあったのか。問いは宙吊りのまま、答えを出せる人間はもういない。

祖父は志願した予科練生だった。空軍として国のために敵艦に身を投じて散ることは、当時かっこいいことだったからだと言った。とんで死ぬことが夢だった。

夢折れて、私がいる。

その空気を醸成したものはなんだろうと当時のものを調べていくとたくさんあった。たとえば1943年に制作された国策映画に『決戦の大空へ』がある。

海軍省と情報局が後援し、テーマソング『若鷲の歌』は、桜と錨マークの金の7つボタンの制服を歌い込んだ。

予科練生だけでなく、映画の中の女優の憂い顔も、人々を飲み込む滅私順国の精神も、その時代の空気のすべてが戦争に動員されていた。

祖父は翔べなかった。終戦の折、白の軍服を着て記念写真を撮った。翔べなかったために私がいる。

だからこそ、国のために散った人を、その家族を、どう考えることができるだろう、とずっと思ってきた。

祖父はアルバムをめくりながら、暗号歌を歌いながら、目を潤ませて色々話してくれた。年齢のせいなのか、涙腺が緩くなっているのか、わからなかった。

個人がナショナルなイデオロギーに塗りつぶされていく、統合されていく。

桜が満開の季節に、この展示を開く。

公園でも、川沿いでも、人々は空を見上げて綺麗だねと言う。その言葉に嘘はない。私自身もそう思う瞬間がある。だから余計に、喉の奥が詰まる。

花びらが散るたびに美しいと感じるように、私たちはどこかで訓練されている。その訓練がどこから来たのかを知っていても、感覚はすでに身体に刷り込まれていて、簡単には解けない。

美しいと感じる自分と、その「美しさ」が動員に使われた歴史を感じ取った自分が、同じ春の空の下に立っている。

たぶん吐き気はそこから来る。花を見て吐き気を感じることへの後ろめたさも、また同時にある。

桜の下で宴を開き、散る花びらに酔う文化と、死を花に喩えて兵士を送り出した文化は、地続きだ。その地続きの上に、今日も私たちは花見のシートを広げる。それを断罪したいわけではない。ただ、同じ身体の中でその両方を感じながら、どうしても飲み込めないものが喉に残る。その感覚を、この作品は手放さないでいたい。

今、全体主義の足音がする。

「サクラ、サクラ、サクラ、」という最後の電報の言葉が、2025年の春に別の響きを持って聞こえてくる。散っていった者たちからバトンを受け取り、誇れる者でありたいと思うからこそ、個人をナショナルなイデオロギーやコンテキストに統合することについて、改めて冷静に考察したい。個人の恐怖を、個人の後悔を、個人が最後に見た景色を、「散華」という一語に溶かすことに、私は抵抗し続けたい。

この作品は、古い写真に花を貼り合わせている。ただそれだけのことだ。顔の代わりに置かれた花は、追悼でも告発でもない。そこに人がいたということ、その人が消えたということ、その消え方に美しい名前をつけて正当化した言葉があったということ、そしてその言葉の美しさを今も私たちが感覚のどこかで引き継いでいるということを、同時に留めようとする試みだ。